二の丸御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成したとされる住宅様式・書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構です。
江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定されました。
内部は、日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画と、多彩な欄間彫刻や飾金具によって装飾されており、将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な設えとなっています。
-
遠侍 三の間 《竹林群虎図》-
遠侍一の間・二の間・三の間
遠待は来殿者が控える場所で、二の丸御殿最大の建物です。来殿者が最初に立ち入るこれらの部屋は、襖や壁の絵から「虎の間」とも呼ばれています。獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の権力の大きさを実感させたと思われます。
-
-
式台 式台の間
式台は、将軍への用件や献上物を取次ぐ場所とされています。表の「式台の間」と裏の「老中の間」からなります。式台の間は、老中と大名が挨拶をし、将軍への取次ぎが行われたとされる部屋です。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。
-
-
大広間 三の間(欄間)-
大広間 三の間
厚さ35センチの檜の板を両面から透かし彫りした欄間の彫刻や、大広間や黒書院の柱に取り付く花熨斗形(はなのしがた)の長押金具は大変豪華で見ごたえがあります。
-
大政奉還が表明された大広間 二の間から一の間を見る-
大広間 一の間・二の間
将軍と大名や公卿衆との公式の対面所です。大広間の主室であり、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)からなります。一の間は、書院造りの特徴である床の間、違棚、付書院、帳台構を備えています。対面の際には、将軍は一の間で南を向いて座し、床の間に三幅対の掛軸をかけ、違棚や付書院には工芸品などを飾ったとされています。障壁画は狩野探幽筆です。
-
黒書院二の間から一の間を見る-
黒書院
江戸時代の名称は「小広間」で、大広間に次ぐ公式の場です。将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面しました。一の間と二の間は、満開の桜が目を惹くことから「桜の間」と呼ばれ、将軍が背にする、かすかに雪をのせた松の枝に加え、梅の花や散りゆく桜を交えることで、季節の流れを感じさせます。襖絵は探幽の弟・尚信筆です。
-
-
白書院
江戸時代には「御座の間」と呼ばれることから、将軍の居間と寝室であったと考えられています。水墨画に包まれる空間は他の棟と趣が異なり、落ち着いた印象をあたえます。中国由来の題材が選ばれ、一の間と二の間は名勝・西湖が、三の間には伝説や歴史上の人物が描かれています。
-
-
-
大広間 四の間
将軍の上洛のときに武器をおさめた場所といわれています。障壁画の「松鷹図」は、二の丸御殿の中でも最も有名なもので、桃山時代の様式を取り入れた巨大な松と勇壮な鷹が描かれています。
-
-
-
式台 老中の間
3部屋からなり、老中が控えていた部屋です。一の間と二の間は「芦雁図」で、三の間は「柳鷺図」です。長押上は白壁のままで質素な造りです。
-
-
-
遠侍 勅使の間
遠待の部屋の一つで、朝廷からの使者(勅使)を迎えた対面所とされています。障壁画には、優美な檜や青楓などが描かれています。
-
-
-
遠侍 柳の間
障壁画は、「勅使の間」や隣接する「若松の間」や「芙蓉の間」と同様に植物を題材としており、公家向けの趣を持っています。
-
-
遠侍一の間・二の間・三の間
-
式台 式台の間
- 式台は、将軍への用件や献上物を取次ぐ場所とされています。表の「式台の間」と裏の「老中の間」からなります。式台の間は、老中と大名が挨拶をし、将軍への取次ぎが行われたとされる部屋です。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。
-
大広間 三の間
-
大広間 一の間・二の間
-
黒書院
-
白書院
- 江戸時代には「御座の間」と呼ばれることから、将軍の居間と寝室であったと考えられています。水墨画に包まれる空間は他の棟と趣が異なり、落ち着いた印象をあたえます。中国由来の題材が選ばれ、一の間と二の間は名勝・西湖が、三の間には伝説や歴史上の人物が描かれています。
-
大広間 四の間
-
式台 老中の間
-
遠侍 勅使の間
-
遠侍 柳の間
- 障壁画は、「勅使の間」や隣接する「若松の間」や「芙蓉の間」と同様に植物を題材としており、公家向けの趣を持っています。
二の丸御殿の廊下
人が歩くと鳥の鳴き声のような音がなることから、「鶯(うぐいす)張り」と呼ばれています。
音は図の通り、目かすがいと釘のこすれによって生じています。
二の丸御殿の障壁画
二の丸御殿には、寛永期の障壁画を含む約3600面の障壁画が残されています。 1982年(昭和57年)には、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されました。寛永期の障壁画は、1626年(寛永3年)の後水尾天皇の行幸のために大改築された際、幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁・狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです。
- 大広間四の間障壁画《松鷹図》
庭園(特別名勝)
御殿の大広間西側に面して設けられた滝を伴う池庭です。1626年(寛永3年)の後水尾天皇による行幸のために、改修されたものとみられます。この改修には、小堀遠州ら作事奉行が携わりました。池の中央には、蓬莱島などと伝わる中島を配します。当初、庭園は、黒書院と大広間、今は無き行幸御殿をつなぐ廊下などで囲われていました。それにより、いくつもの方向から鑑賞できる造りとなっています。