本丸御殿は2024年3月末に本格修理を完了し、美しくよみがえりました(2024年9月1日より、18年ぶりに一般公開を開始)。
歴史
本丸とは、城の中心にあたる区画です。二条城の本丸は、3代将軍・徳川家光の時、大御所の秀忠が、後水尾天皇の二条城行幸のため、1626年(寛永3年)に城の敷地を西側に拡げて設けられました。その時、本丸内に建てられた御殿は、1788年(天明8年)の大火で焼失しました。幕末になって、15代将軍・徳川慶喜が本丸の北寄りに仮御殿を建てましたが、1881年(明治14年)頃に撤去されました。
江戸時代が終わると、二条城には明治新政府の施設や京都府庁などが置かれ、1884年(明治17年)には皇室の離宮「二条離宮」となりました。1893年(明治26年)から翌年にかけて、荒廃した京都御所周辺の再整備の一環として、御所の北(今出川御門内)にあった桂宮御殿の一部を本丸に移築し、現在の本丸御殿が整備されました。その後、本丸御殿は、明治天皇や皇后、また皇太子時代の大正天皇や昭和天皇たちが訪れる離宮の一施設として、重要な役割を果たしました。
なお、桂宮家は、代々天皇を支えた家であり、11代当主となった孝明天皇の異母姉の淑子内親王まで続きました。
御殿(重要文化財)
桂宮御殿は、1790年(寛政2年)~1793年(同5年)から1849年(嘉永2年)までの間に順次整備された建物です。本丸には、同建物のうち「玄関」、「御書院」、「御常御殿」、「台所」、「雁の間」が移築されました。移築の際に「御常御殿」は、90度向きを変えて「御書院」の南に渡り廊下で接続されました。かつて離れた場所にあった「御清所(台所)」と「雁の間」は、隣り合って建てられました。移築後、畳の上には絨毯が敷かれ、シャンデリア等の照明など、近代的な設備も整えられました。
京都御所の周辺にあった宮家や公家の建物は、明治維新後にほぼ失われ、現在、江戸時代にさかのぼる大規模な宮家の御殿は、元離宮二条城の本丸御殿を残すのみとなっています。本丸御殿は、当時の宮家の住まいのありようを知ることができる貴重な建築として、国の重要文化財に指定されています。
-
玄関
-
御書院 一の間、二の間、三の間
-
御常御殿
-
御書院 四季の間(春の間、夏の間、秋の間、冬の間)
-
御書院 雲鶴一の間、雲鶴二の間、雲鶴三の間
-
台所及び雁の間
本丸御殿の障壁画
本丸御殿には、四季折々の植物や風景、風俗をテーマとした障壁画があります。
例えば、御常御殿の松鶴の間に京狩野の9代当主、狩野永岳によって描かれた松鶴図は、鶴の羽を一本ずつ捉えた精緻な描写と鮮やかな色彩が、金砂子が散りばめられた背景に浮かび上がり、格式高い室内を飾るに相応しい逸品です。
また、円山派の実力者、中島来章によって、御常御殿の四季草花の間に描かれた四季草花図は、南面に菜の花などの春の花と、菖蒲などの夏の花を描き、東面には薄や菊などの秋の草花、北面に水仙などの冬の花を描いており、部屋全体が四季の草花に囲まれています。色とりどりに描かれる草花には部分的に輪郭線がないため、華やかながらも優しい雰囲気があります。
本丸御殿の障壁画を描いた絵師の多くは、京都御所の障壁画制作にも参加した精鋭たち。本丸御殿の障壁画は幕末の宮廷文化を今に伝える、貴重な作品群です。
- 御常御殿障壁画、狩野永岳筆《松鶴図》
- 御常御殿障壁画、中島来章筆《四季草花図》
庭園
本丸庭園は、桂宮御殿の一部を本丸に移築した直後に、新設されたものです。当初は平安時代末の意匠を念頭に置いて築かれましたが、1895年(明治28年)に明治天皇が御殿を訪れた際に、まだ出来たばかりの庭園の作り替えが命じられました。
その結果、姿かたちは一旦白紙に戻され、樹木や石は再利用されました。そして、曲線の園路で囲われた芝地、伏せて据えられた景石、築山(月見台)からなる、近代的な意匠をもった現在の本丸庭園が成立しました。