後水尾天皇の行幸
天皇の外出のことを「行幸」と言います。二条城においては、1626年(寛永3年)9月、上洛中の徳川秀忠、家光の招きに応じ、後水尾天皇が行幸しました。2代将軍秀忠の娘であり、天皇の中宮となった和子らと 5日間滞在し、能や和歌などの会が賑々しく催されました。行幸を迎えるにあたって、2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿なども造営されました。また、狩野派の見事な障壁画も行幸に際して新たに描かれたと言われています。その後、行幸御殿等は移築され、天守閣、本丸御殿等は焼失しましたが、二の丸御殿は今も往時の風情を伝えています。
大政奉還
- 1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされました。これを日本史上、大政奉還と呼んでいます。
徳川家康が朝廷から征夷大将軍を宣下されて以来、政治の大権を天皇から徳川家が預かる形で、日本の統治者として君臨してきましたが、幕末、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで討幕運動を始め、土佐藩からは慶喜に大政奉還の意見書が提出されました。10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、在京していた40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、大政奉還が成立したことで、一旦は討幕の動きは弱まりましたが、やがて江戸無血開城へと至りました。
大正天皇即位の大典
大正4年(1915年)、京都御所の紫宸殿で、大正天皇の即位の儀式が行われ、その後の饗宴が二条城で開かれました。この一連の行事のことを「大正大礼」と言います。饗宴には皇室関係者、各国の要人や総理大臣が招かれ、当時、天皇の別荘として利用されていた二条城で、新たな天皇の即位を華やかにお祝いしました。饗宴のために様々な建物が新築されましたが、直後に移築または撤去され、現在は南門だけが残っています。